スイミーから学ぶ共同体―コロナ禍での考え方

前回は、「コロナ禍における「世」について」という記事を書きました。その際に、スイミーから学べることについて記しました。今回も同じようにスイミーを突端にして、今後の社会のあり方について論じていこうと思います。

 前回の記事の中で私は、、「忘れてはいけませんが、目になったスイミーだけでなく、尾びれやエラ、口の部分を担っていた赤い魚たちも欠かすことのできない役目を負っています」と論じました。今回はこの部分を深めていきます。強者に対抗するために集団をつくったとしても、その中で離反していたら生き抜けませんというお話です。

1.スイミーから学べること

 前回の記事では、「弱者でも集団で連帯すると強く生きることができる」という話をしました。今回は、それをさらに一歩進めたいと思います。スイミーたちは、大きな魚に対抗するためにみんなで一匹の大きな魚になりました。みんなでひとつの身体を持ったのです。

 これを「共同体」と呼びます。そもそも、共同体とはどのようなものなのでしょうか。

 まず「」とは、友や伴という字と関連し、両手をそろえていることを意味します。そして、この両手をそろえている様は、「両手でものを奉じている」ことを意味します。
 つぎに、「」とは、口で謀り合議する意です。時間をさかのぼれば「卜文・金文の字形」(古代中国・殷や周で用いられていた甲骨文字や青銅器に記された原初の形)では、上半分は盤、下半分は祝詞を治める器のような形をしています。この形は、地主に酒をそそいで地霊を呼び起こす儀礼を意味すると言われています。また、古語の「おやじ」と同語とされ、同祖同族であること、そして同族共餐(祖神と同族者が結合されること)を意味します。
 最後に、「」とは、旧字体の「體」からつくられた漢字で、四肢を備えた身の全体のことを意味します。身体と同義になります。

 以上をまとめると、「共同体」とは、同祖同族として結合・連帯することを目指し、両手でものを奉じる人々の集団(身体)のことを意味します。台風や地震、旱魃、雷といった災害が天地(神)の怒りによるものだと思われていましたし、農作物などの実りは天地からの恩恵だと考えられていました。そのため、おなじ集団に属している人同士が、協力して天地に祝詞を奉じる必要があったのです。

2.コロナ禍において

 この原初の共同体のあり方から、現在の社会のあり方について学べる部分があると思いませんか。

 今回問題となっている、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)は、自然の中で発生し、人間社会に伝播してきたものです。天地の怒り(現代的に言えば、自然環境の変化)によって生まれてしまったウイルスです。今日、科学が発展したことによって、台風や地震がなぜ起こるのかをひとつの説として理解できています。ただ、現状、新型コロナウイルスについては、まだ全容が解明されていません。未知のものに対峙している状況は、似ていると言えます。そのため、コロナウイルス感染症へは、原初の共同体のあり方と同じような姿勢で対応することが望ましいでしょう。ただし、いまでは、「祝詞を奉じる」というお祈りの形式はとらずに、

  1. ワクチンや治療薬を開発する
  2. 感染が拡大しないように行動を変える
  3. 物の交換をストップしない

と、行動することになります。

 これらを実行する際に、共同体の成員のパフォーマンスが最大になるようにすることが最も大切です。古来、災害が起きた場合には、共同体の成員が一丸となって災禍に対峙することで乗り切ってきました。今回もそのように協力するタイミングなのだと感じます。

3.行動の変容

 共同体のパフォーマンスを最大化させる上で、以下がポイントになります。

  1. 自分の居場所
  2. 批判と非難
  3. 共身体

(1)自分の居場所

 いの一番に大切になるものは、「自分の居場所」を自覚することです。私たちは、好むと好まざるとに関わらず、一定の状況のなかに存在しています。たとえば、なんだかよく分からないけれど、コロナ禍の抑え込みが成功したらしい日本という土地に暮らしています。この日本には、2020年の概算で1億2590万人が暮らしていますが、実は一人ひとりの置かれている状況は異なります。住んでいる地域が違う、就いている仕事が違う、人生経験が違う、できることが違う、関わっている人や地域…など、あらゆるものが異なります。

 それゆえに、一人ひとりは―いかな形容でも足りないほどに―大切なんです。一人ひとりが固有だからです、希少だからです。それだけで、もう最大限に尊重する価値があるんです(本当は、「価値」などなんらかの度量衡で人間を測る必要なんてありませんが)。そういった、一人ひとりの固有性に立脚して、この災禍を乗り越えていくために肩を組めば―想像的ではありますが―共同体として力を合わせることができます。すると、車掛かりの陣のように、たえず新手で「事にあたる」ことができ、共同体としてエンドレスにコロナに対することができるようになるのです。

(2)批判と非難

 この時に大切なことは、自分の居場所を理解し、その中から知恵を絞ることです。その上で、生の物語をバックにして生み出される一人ひとりの発言について、否定しないことです。それは、先述の通り、一人ひとりが経験してきていること、知っていることが異なるからです。そのため、たとえ同じものを見ていても、見え方・捉え方が変わってきます。言い換えると、ひとつの物事を他の仕方で受け取っているのです。

 この点において、「批判」と「非難」を区別していく必要があります。ここで言う「批判」とは、相手の発言や意見について、その不足を補うために自らの意見や経験にもとづいて行う言論のことです。一方で、「非難」とは、他人の案や発言について、なんらかの間違いを理由に、すべて(あるいは発言者そのもの)を否定してしまう言説のことです。

 人間は、決して全知ではありえません。ですから、どんな知者が何を考えようと、必ず欠陥や不足が生じます。その不足は、往々にして、別の角度からの検討によって明らかになります。そして、その別の観点によって修正することが可能になります。ですから、何らかの不足や欠点を理由に、他者を非難してしまうことは、ブラッシュアップの可能性を放棄することになりかねません。加えて、そのように非難をしてしまうと、ある人物の意見のいいところを取り出す―揚棄・止揚をする―機会までもが失われてしまいます。もったいないですよね。

(3)間主観性

 実は、筆者は、物事の正否にはあまり興味がありません。というのも、物事の真理というものは、間主観性のもとに疑似的に構築されるものと考えているからです。

 「間主観」とは、あまたの主観性が合わさった上で、客観的な認識が生まれることを言います。なんだかよく分かりませんよね。安心してください。この説明だと私もなにか分かりません。

 まず客観から説明します。私たちが、「客観的に物事を考える」という営みは、主観(自分)を離れるようと努めることからはじまります。この時には、できるだけ感覚による情報や感情を交えずに、データや事実にもとづいて考察をすることになります。ただし、この時に注意しなければいけないことは、それらを検討する私たちは、自らの知識や経験の枠の外で事象を検討することができないことです。たとえば、データを検討しようと思っても、統計学の知識がなければ精緻には解釈することができません。よしんば、知識があったとしても、思考の癖などにより取り扱いがまちまちになります。客観的にものを考えようと、自らを離れようとしても、結局は離れられないんです。自分の中に他者を想像的に象り、それに憑依する形でものごとを考えることが客観なのです。したがって、「私の客観」とは、他者から見たときに、主観と言って相違ないものであることがほとんどです(こんなこと書いたら怒られちゃうかな)。

 ですから、私たちは、客観になろうとしても自分の居場所による拘束から逃れられないため、「私」という範囲の中に居続けることになります。この状況を打破する方法はひとつです。それは「他者の主観を呑み込んじゃう」ことです。私たちは、自分の居場所から逃れられませんが、他者が語るものを自らの中に情報として取り込むことで、他者の居場所を追的に取得することができます。すなわち、他者の主観を取り込んで、客観を作り出すことができるのです。すると、居場所による拘束から、半歩出ることが可能になります。これを連続的に行っていくと、取りこんだ他者の主観的判断と私の主観の間に、総合された「新しい私の主観」が構築されていきます。言い換えるならば、私の居場所だけに拘束されてない主観が構築されます。みんながこれを実現させようとしていくと、主観を共有できるところまで行くことが―いまのところ理論上は―可能です。これが間主観です。特定のものごとを、あっちからもこっちからも見ているうちに、広く奥行のある考え方にたどりつけるのです。

4.まとめ

 コロナ禍は、紛うことなく未曽有の事態です。ですから、独力で乗り切れるものではありません。みんなで、力を合わせないとうまくいかないのです。共同体全体で、協力し合わないとうまくいきません。

 そんな時には、まずコロナウイルスとそれによって生じた事況を他のひとが、どのように理解したか・感じたかを共有することが大切です。そうすることで、あらたな環境をつくっていけるのではないのかな、と感じます。

 そのために必要なことは、上述した通り、お互いを尊重しあい、共同的な主観性を構築していくことです。その上で、こうしようねと手を取り合い、事に当たればまったく違う社会をつくっていくことが可能なのではないでしょうか。もしよかったら、一緒にトライしてみませんか?


<参考>

  • レオ・レオニ『スイミー』
  • 総務省統計局 https://www.stat.go.jp/data/jinsui/new.html
  • オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』
  • エドムント・フッサール『間主観性の現象学 その方法』、『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(本論では、すこし取り扱いが雑でしたが、洞見に満ちた作品です)

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