議会主義とデモクラシーの出会い

議会主義のはじまりは?

 デモクラシーの国には、国会や都議会・県議会、区議会、市議会、町議会、村議会といったものがあります。これは住民の代表者が地域や社会のことを決められるように設置されています。そのため、議会主義はデモクラシーの制度として重要なものと理解されています。ただ、忘れてはいけないことは、「議会」はデモクラシーから生まれたものではなく、「貴族政」から生まれたものだということです。

 いまある議会の起源は中世の身分制議会にあります。この身分制議会は、ヨーロッパで聖職者や貴族の代表となるひとたちの集まりに、例外的に市民を加えたことからはじまります。イギリスのように、高級貴族と聖職者が一部会を、下級貴族と市民が他部会を構成する二部会制のものと、フランスのように貴族と聖職者と市民がそれぞれ部会を構成する三部会制のものがありました。この部会は、基本的には、国王が課す税金に承認をあたえるために機能していました。

 その後、王の権力が最高潮に達する(いわゆる絶対王政)と、イギリス以外では開催されなくなっていきます。この身分制議会がいまのような議会に代わっていくきっかけになったのが、市民革命です。「市民革命」とは、王などが独占していた権力を貴族や市民が解放していく運動のことです。それ以降は、なんらかの決定をする際には、言葉によって民衆の支持をとりつけていくことが必要になってきます。そして、言葉によって権力の正しさを確立するために機能するようになったのが議会だったのです。イギリスでは、国王は議会のなかにいるという発想(King in Parliament)が定着し、議会がなににも優位し、話しあいの積み重ねによって政治が運営されるようになっていきました。

 ただし、この議会を中心とする政治は、財産や名望・教養をもつエリートたちによって行われることがほとんどで、貴族的な性質が強かったのが現実です。というのも、当時、政治にかかわる人は、自発的で理性的に判断をくだすことのできる「市民」であることが前提となっていたからです。この前提があるために、だれでも選挙権を得られる状況にはならなかったのです。

デモクラシーとの接合

 では、どのようにデモクラシーと議会が結びついていったのでしょうか。議会に多くの人が参加・参画できるようになったのは、19 世紀・20 世紀です。この間に何があったかというと、資本主義的な活動が活発化し一人ひとりの活動の重要性が増し、また情報・通信技術が進歩しつづけたことにより、様々な利害の対立が世の中に生じるようになったのです。そのため、政治においても「市民」に担い手を限定しておくことも、「政治的平等」をもとめる声を無視し続けることもむずかしくなりました。それにより、選挙権の拡大(普通選挙の実現)が必然的にすすみました。

 これにより、議会に参加できる枠が拡大され続け、利害対立の調整の場が確保され、またそれによって政治課題に対処するようになったのです。つまり、議会主義はデモクラシーと出会ったことで、権力の正しさを参加できる人すべてから吸い上げることで強制力の行使を簡単にして、政治をおこなうことを、そしてその安定性を強化していったのです。

 この点において、「現代政治は混合政体だ」と言われることになります。それは、誰でも参加できる投票(デモクラシー)、代表者のみが討論・合意する議会(貴族政)、そして首相や大統領のようなリーダーが(あくまで形式的ではあるが)コントロールする仕組み(王政、僭主政、独裁)が合わさっているからです。ただ、これはどれかが最も強いとか、どれかが最も弱いとか言う話ではありません。参加する人の数や国の大きさから、代表制を一部で用いているに過ぎないからです。理念と現実の間のズレは必要性から生じていて、またそれはバランス的な問題となっている事実は何かのタイミングでたまに思い出していただけたらと思います。今回はここまでにします。

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