政治教育と学習の違いは? 政治参加との関係から

(1)ひらかれた政治参加と教育

 選挙権を得れば誰でも政治に参加できるようになったのは、最近のことです。日本であれば、1889年に25歳以上の15円以上国税を納入している男性に選挙権が付与され、1900年に25歳以上の国税納入10円以上の男性に拡大され、1919年に3円以上になり、1925年に25歳以上の男性全員に与えられました。第二次世界大戦の終戦まで女性や貧困層、住居のない物、6年以上懲役や禁固刑を受けたものなどには与えられていませんでした。1946年に日本国憲法が公布されると20歳以上の男女に選挙権が付与されるようになりました。

 いまは2022年ですから、76年前に誰でも参加できるようになったのです。近代社会がはじまってから、しばらくは民主主義は衆愚政治のこととされていたため、多くのひとが参加できていませんでした。この時には、民衆が無知で従順であることが政治を行う上でポイントとなっていました。ところが、多くの人が参加できるようになり、つまり普通選挙が確立され、政治の世界に国民が参加できるようになってくると、状況が大きく変わってきます。

 独裁や貴族政でなく民主主義が確立されてきたのは、ある種、虐げられた人々が闘った結果です。さらに、その前段階で施政者が権力の正統性を民衆から引き出そうとするようになっていたことにも要因があります。現代社会においては、圧倒的な強制力を権力が保持し従わせるといった仕組みは機能しづらくなり、できるだけ多くのひとが参加できることが目指されています。そのため、自動的に支配を成立させられる状態ではなくなったのです。言い換えれば、支配側から民衆に対する働きかけは、強力なものでまた継続的なものになっています。それに、以前求められていた政治的無関心も体制の安定というよりもむしろ不安定化に働くようになったのです。正統性に疑問がつくことがあるわけですから。

 この点において、義務教育を含む公の教育やマス・メディアの発達や普及は、主体的な「市民」を生み出すためのものになると同時に、民衆の操作にひとやく買うことになったのです。とりわけ、公教育は支配に対する正統性をすりこむことに大きな力を有しています。たとえば、教科書は児童や生徒、学生に「正しいもの」として提示することができます。そのため、教育を通じた重要性の強調やアピールは、一定の共通的な認識をうむことになるのです。

(2)政治教育と政治学習

 日本では、教育基本法に政治教育に関する条項があります。

(政治教育)
第十四条 良識ある公民として必要な政治的教養は、教育上尊重されなければならない。
2 法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。

 これを読むと、どうやら党派的な教育を行うことは禁止されています。しかし、政治に関するいっさいの教育の道が閉ざされているわけではありません。とはいえ、党派的な教育の禁止の影響で、「政治的中立」が論点となります。そのため、政治的には中立だが政治教育を行うという極めてむずかしい状態にあるのです。様々なものが政治課題に数えられる現代において、政治的中立を主張することは何にも与さないことを意味し、ひとつの政治的態度の表出となります。政治と教育のこの関係を意識することは、教育が自律的に行われる上で、とても重要なポイントです。

 あたらめて言うまでもありませんが、上から行われる政治的な教化によってのみ、ひとびとの政治的な態度が形成されるわけではありません。政治にかかわる主体は、権力側から発されるメッセージとその外に、そして―ある点において―抗するかたちで形成されるのです。政治に主体的に参加する人たちは、知的な情報の伝達だけで構成されていくわけではありません。その人たちが、生きている中で様々な形で政治と関わり、その中で経験的に身に着けていくものの要素も大きいのです。そして、さらに重要なことは、一人ひとりの人間が社会の未来をどのように構想し、どのように関わっていくかを考え、行動することです。

 このように、政治についての学びは、教育を通じて教えられるものと、日常を通して学んでいくものがあります。一定の共通性のある政治教育と、個別的で特殊的な要素をもつ政治学習は、まったく異なる性質を持つものです。それぞれの特徴を整理し、それぞれが適切におこなわれるようになることが民主主義の維持のための不断の努力に必須となってくるのです。その中で獲得されていくであろう「市民性」というものが、どのようなものかについてはまた改めて申し上げることにします。

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