過渡期の中で:総力戦における「社会」との繋がり

『総力戦』に向けた国家総動員体制の構築という命題は、今日の日本にも様々な示唆を与えるものである。第1次近衛内閣が成立させた国家総動員法(’38年4月)が、日中戦争を端緒とする太平洋戦争を支える「礎」となったことから、国家総動員という概念そのものが、あたかも軍国主義の象徴かのように喧伝されることは少なくない。しかしながら、有事に際して局面を打開するために、物資の優先配布等の「統制」を(勿論可能な限り抑制的に)行う必要があることは、今般の新型コロナウイルス感染症を巡る災禍からも明らかであろう。こうした統制等と私たちは如何に向き合えば良いのだろうか。

国家総動員という概念は、政策目標を個々人に内面化しようとするものの他ならない。故に、その政策目標が歪に内面化されると、(法で規定される事柄と比較して)より多様な、想定外のアウトプットがなされるケースが存在する。戦中であれば、例えば国防婦人会による「国防不足資源蒐集運動」であり、「敵性語排斥運動」を挙げることができる。合理的に検討すれば、政策目標の達成には必要でないにも関わらず、それが歪に解釈された事例と指摘できるだろう。この歪な解釈が拡大すると、本来は(有事であるからこそより一層)合理的な判断が求められる政府内部からも、従来の政策目標を逸脱して、この歪さを利用しようとする動きが見られるようになる。戦中であれば、’40年9月の文部省指導要項による各大学・旧制高校等における学生会の解体などが、国家総動員体制の構築には必要ではないにも関わらず行われた。これまでに挙げた事例は、政府が直接関与せずとも、間接的に国民同士の相互監視の仕組みを実現するものであるとしても過言ではない。

確かに相互監視という仕組みは、その過程の如何を問わず、国民を団結させるには手取り早い手段であることは否めない。しかしながら、他人からの視線に怯え生活することが、言い換えれば個々人の私的な領域にまで他者が介入してくることが当然である状態が、持続可能性が高いと考えられるのか。換言すれば、国民たる人間と人間が常に極度の緊張関係にある中で、長期戦を戦い抜くことはできるのだろうか。アレントは、全体主義を政治哲学の視座から検討した著作『人間の条件』の中で、人間の活動的生活(vita activa)は労働・仕事・活動であると説いた。アレントが、「物あるいは事柄の介入なしに直接人と人との間で行われる唯一の活動力である」と定義した”活動”が相互監視へと変容した暁に、人間が人間のままであり続けることが不可能であることは最早自明であろう。

今般の新型コロナウイルス感染症の感染拡大に伴い、「自粛警察」と呼ばれる地域住民による自主的な相互監視がメディア等で取り上げられる機会が少なからずあった。この自粛警察には明確な旗振り役がいないとは言え、新型コロナウイルスという未知のウイルスとの総力戦にあたっての、国民同士の相互監視の仕組みの一類型と位置付けられる。自粛警察の動きを前時代的なものとして看破することは容易いが、その行為は結果として自らの首を絞めることに繋がる。私たちが今目の前にしている災禍は、私たちの住む社会が近代から現代、現代から新しい時代へと移り変わる過渡期にあることを表出させ、新しい時代の価値(観)が何たるかを私たちに問うている。重要なことは、そうした「自粛警察を行う人々」を包摂しながら、新しい時代を構想し、私たち一人ひとりが丁寧にそれを内面化していくという所作であり、決して分断の扇動ではない。社会と私たちがどのように繋がるのか、長期戦たる有事においても、人間が人間のままあり続ける為の社会の形を模索する営みが今、求められているのではないだろうか。

参考文献
・国防婦人会(藤井忠俊, (岩波新書)/岩波書店, 2015)
・人間の条件(ハンナ・アレント, (ちくま学芸文庫)/筑摩書房, 1994)

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