こんな日本に誰がした―他責論批判への助走

 谷沢永一『こんな日本に誰がした―戦後民主主義の代表者大江健三郎への告発状 』(講談社、1995)という本があります。これは大江健三郎が海外に対しておこなった日本の批評に対する反論の本です。同名の本に堺屋太一ら『こんな日本に誰がした』(扶桑社、2006)や佐高信『こんな日本に誰がした!』(講談社、2002)があります。

 今回は、いずれの主張にも踏み込みません。話をしたいのは、「こんな日本に誰がした」という物言いについてです。類似しているものに「保育園落ちた日本死ね」などがあります。このような発言を批判する記事になりますので、意に沿わない方は戻るボタンを押していただければと思います。

1.こんな日本に誰がした

 わたしは、「こんな日本に誰がした!」といったセンテンスに違和感を持っています。この発語は、日本の現状が悪いという認識を土台に、そのような悪い状況をつくり出した責任者を告発しようとしているものです。したがって、この言葉を発した瞬間に、発話者は、日本の現状にたいして何の責任もない人として立ち上がります。というのも、なんらかの事件に対して、その責任を問えるのは、その原因になっていない人だけに限定されるからです。

 想像してみてください。曲がり角のちょうど死角になる場所に自転車が置いてあって、そこを曲がる時にぶつかってしまった人がいるとしましょう。この時、ぶつかった人と、置いた人がいるわけです。自転車を置いた人が「なにぶつかってるんだ!」と言ったらどう思いますか。おおかたの人は、「いや、おまえがそこに自転車を置いたからだろ」と感じるでしょう。このような時に、両者に反省を促せるのは大岡越前守みたいなひとです。「いやいや、自転車をそんなとこにとめた君も、曲がるときにチェックしなかった君も悪いぞ」と。しかし、たとえば、大岡越前守が、その曲がり角の死角部分に駐輪するのを許可していた場合、彼は注意をする立場になくなります。なぜなら、その事故の原因の一部を彼が構成しているからです。

 大岡越前守が、両方に責任があると裁定をくだせるのは、「大岡が裁定の対象となる事件・事故にたいして関与していないから」なのです。このように考えると、日本の惨状を嘆いて、「こんな日本に誰がした!」と言うことができるのは、そのひどい状況に対して責任を負っていない人ということになります。したがって、谷沢は日本の惨状について「私は何も悪くない」ということを無意識に主張しているのです。ちょっと、待ってください。

 この国は、制度からして国民主権の民主主義国家ですから、その惨状については国民みんなが連帯して責任を負うことになります。もし、日本の状況がそうとうに悪いのであるならば、その原因は、誰か一人に帰すことができません。言ってしまえば、わたしたち全員が原因となるため、わたしたち全員が共犯です。悪い政策を推し進めたこと、その政策に反対しなかったこと、そのような状況が進行しているのに意を唱えたり抗わなかったこと、重要な政策に関連する選挙で投票をしなかったことなど、様々な形で共犯関係がうまれます。

2.他責論のアポリア

 さて、「いまさら?」な問をします。いったい、責任ってなんなのでしょうか? 辞書を引いてみると、以下のような意味を持つことが分かります。

人間の行為が自由な行為であり、その行為の原因が行為者にある場合に、その行為ならびに行為の結果に関して、法的または道徳的な責任が行為者に帰せられる。したがって、外部から強制された行為や、幼児や精神錯乱者の行為に関しては、その原因が行為者の自由な決定のうちにはないとして、責任が問われないのが普通である。   

 ―『日本大百科全書(ニッポニカ)

 「責任」とは、人間が自由に行動する際に、行為とその結果に対して生じる責任のことである、とのことです。ある単語の説明をするに当たって、その単語自体を使うのはルール違反です。しかし、このような記述がなされている理由は―明らかなことですが―「責任」という概念の構造がとらえづらいからです。

 念のために、他の辞書も確認してみると、以下のように書かれています。

1 立場上当然負わなければならない任務や義務。「引率者としての責任がある」「責任を果たす」
2 自分のした事の結果について責めを負うこと。特に、失敗や損失による責めを負うこと。「事故の責任をとる」「責任転嫁」

―『デジタル大辞泉

 さて、1と2の間には、だいぶ質的な差があることにお気づきいただけるでしょうか。1は、みずからの立場上あたりまえに実行しなければいけないことを意味する遂行的な概念ですが、2は自分のしたことに対する責めを意味しています。1は、ある時間的な点から未来にむかって指向されますが、2は、ある一点から過去にむかって指向されるものです。つまり、この「責任」という概念的構造物は、真逆の指向性をもっているのです。この影響で分かりづらいんです。法律学では恐らく後者がメインですが、こと社会について語る場合に、後者の語義はほとんど意味がありません。

 というのも、原因となった人間を特定してもなにも変わらないからです。たとえば、日本の状況をわるくした人の代表格としてA大臣がいるとしましょう。このような根源となる人間を特定したところで、できることは反面教師にすることくらいです。

  せっかく特定するのであれば、それよりも前に戻る必要があります。そのような人が、なぜ日本の政策決定における要路を占めたのかという点です。たとえば、20 X X 年自民党総裁選挙において総裁に選出された国会議員による内閣が原因になります。そして、その国会議員を選挙で選んだのは誰でしょうか。そうです、わたしたち国民です。国民全員でものごとを決める体制となっているため、すべての不利益の原因は基本的にわたしたちに帰せられます。ですから、『こんな日本に誰がした』が公刊された1995年の村山富市内閣時代の社会的混乱というのは、わたしたちが自民党の腐敗がいくとこまでいくのを許容しつづけた結果です。もしくは、自民党に代わる政党を育ててこなかった国民的怠惰の結果です。

 間違ってはいけません。その当時の社会が混乱のただ中にあったとしたら、それは問題なのではなく、問題を放置し続けてきた結果なのです。いいかえると、わたしたち国民が、みずからの市民的責任を遂行的に果たさなかったことの結果なのです。わたしたちの愚かさの集積と言ってもいいかもしれません。

 ですから、日本が暗澹たる状況にあるならば、日本人はその責めを帰すべき人を糾弾することができません。なぜならば、その対象が自分自身だからです。犯人が犯人をさばくことになります。それに、そんなことしたらしんどいでしょ。ですから、「こんな日本に誰がした」と発話することは、「わたしは市民的責任を十分果たしている(から具体的窮状には無関係だ)」か、「わたしには責められる要素がない」のいずれかを意味することになります。前者であれば、遂行的な任務を十分に行っているのにひどい状況に陥っているのは、なぜなんでしょうか。後者であれば、、、まぁ好きにしてくださいって感じです。言っていることは一緒です。その悪い状況をつくりだしたのは、わたしではないと言っているのです。

 このように自らの社会の悪い状況について考える時に、その状況の原因をどこかの誰かに押し付けようとする人は、ヒラっと参画者であるところの市民から、評価者という上位存在に体を移します。そして、上位者として、その愚かさを発揮した人を告発することになります。えっと、、、谷沢にそのような位置をとるだけの何かがあるのでしょうか。申し訳ないですが、私は、寡聞にして知りません。なんらかの事案に対して、その責任者を問うことは、法廷をのぞいて、ほとんど意味がありません。犯人捜しをしている暇があったら、わたしたちの社会という船の底に空いた穴を補修することにエネルギーを注いだ方がよっぽどいいからです。なにより、この補修作業こそが、(遂行的な)責任行動そのものなのです。

 なんらかの悪い問題(怠惰や愚かさの結果)が発生している時は、その状況を克服することに力を注がなければいけません。しかし、問題の原因となった人を探し出して指弾することに力を向けてしまうために、状況が深刻化していき、手の施しようがないところまで悪化してしまいます。これが他責論のアポリアです。いいですか、だれが悪いかなんて大体にしてどうでもいいんです。

3.社会における責任のあるべき姿のために

 さて、ここまで「こんな日本に誰がした」という言葉について、考えてきましたが、他責的に責任者を探し出して、吊るし上げることが如何に無駄なことか分かってきた気がします。

 「責任」について書いてきて感じたことは、この概念的構造物は、存在せずに機能するタイプのものだということです。代表的なところだと、ヒッチコックによるマクガフィンのような装置だと言えるでしょう。

 たとえば、この会話を見てみてください。

Aさん「ねぇ、やりがいってなんだい?」

Bさん「やりがいは、仕事を楽しくやるためのものさ」

Aさん「仕事なんて楽しくないじゃないか!」

Bさん「ほら、やりがい、役に立つだろ」

 この「やりがい」がマクガフィンという装置です。パソコンや車のように存在しているわけではないけれど、機能として存在する仕組みです。

 「責任」も同じようなものです。ただ問題なのは、遂行的な意味での責任が機能しなくなってしまっていることです。このままいくと保育園のキャパシティが足らなくなるぞという時に、んじゃ備えておきますかと前もって行動する人がいなくなってしまっているんです。保育士の待遇を改善して離職率をさげる努力をしておこうとする人がいないんです。

 さっきの自転車の例なら、通りがかりに、こんなところに自転車停めていたら危ないわねと、よけておく人がいなくなってしまっているんです。

 「こんな日本」になってしまったのは、市民が遂行的責任を果たさなくなってきたことの結果です。市民が市民であることをやめた、もしくは道におちている石をどけておくような、ちょっとしたアクションをとらなくなったからです。社会を構成する人間のひとりとして、責任を遂行的に果たすという市民的成熟の階梯を進まなくなったからです。

 したがって、もし、「こんな日本」を是正したいのであれば、すべきことは、悪玉菌を探し出して攻撃することなどではなく、目の前のちょっとしたボタンのかけ違いをサッと直すようにすることです。誰かがやるだろうではいけません。「いっちょやっときますか」です。マインドセットを切り替えること、それがこの惨劇日本を改善するほとんど唯一の特効薬です。

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